金貸しの歴史について調べてみた

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弥生時代

日本最古の銭は、飛鳥時代に鋳造された富本銭とされています。

「金貸し」という職業もそのとき同時発生的に誕生したと考えられています。

しかし、そのルーツは、お金が流通するずっと前、稲作が盛んに行われた弥生時代には存在していました。

当時の人々にとって、米は生命に直結する貴重な存在です。

特に、その年の最初に収穫される米『初穂』は、神聖なものとして神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵されるようになりました。

その稲は特別な能力を持っていると考えられ、毎年春の作付のときに初穂を貸し出し、秋の収穫が終わると、富をもたらしてくれた神へのお礼として、借りた種籾に利息分を付けて蔵に返すという習慣ができました。

これが金貸しの源流だと言われています。

飛鳥時代

その後、大化の改新を経て、政府が金貸しを行うようになり、この金貸しのシステムを『出挙(すいこ)』と呼ぶようになりました。

当初は、初穂という純粋に宗教的な儀式だったものが、次第に現実的な政府税収確保のための手段として用いられるようになったのです。

というのも、当時は租庸調という税制があり、不作の年があると翌年の作付がままならなくなり、納税が滞ってしまいます。

政府が種籾を農民に貸し付けた狙いは、秋の収穫を政府の管理下で確実にするためであり、社会保障の意味合いもありました。現代で言えば、一年で完結する公的年金のようなものです。

その後の記録では、文武元年(697年)に「政府が無利子で”大税(おおちから)”という稲を貸し付ける」(『続日本紀』)とあります。

これは、貧民のための対応策としてとられたものです。

奈良時代~平安時代

もともと出挙は官営(政府が行う公的なもの)でしたが、貨幣が流通し、蓄銭叙位令により貨幣が市場に流通するようになると、寺院や当時の官僚が銭を私的に貸し付けるようになりました。

政府が行う公出挙に対して、私的に貸し付ける私出挙と呼ばれるものです。

米の出挙が銭の出挙にシフトし、貸し手の吝嗇(りんしょく)ぶりも一段と増しました。

証書の書き換えという手口がこの頃すでに行われていたといいます。

奈良時代が舞台の説話集『日本霊異記』には、人が借りたものを返さずに死んでしまうと、牛や羊、ロバに生まれ変わり、生前に借りた分だけ働かされる様子が描かれています。

この時代から、返済に困った債務者がたくさん存在していたことがうかがえます。

鎌倉時代

鎌倉時代になって初めて、金貸し規制が本格的な金利規制として出されました。

米の出挙については、「480日を限度に元本の2倍を超えることは認めない」、銭の出挙に関しては、「期間を1年に限定し、元金と等倍の利息にすべき」と定められました。

これが、利倍法と呼ばれるものです。

しかも、これに反する者は「証文を確かめて債権者に返済されるべき稲や銭は当局が没収する」という強い内容です。

鎌倉初期はそれほど銭が流通していなかったが、後期に入って中国のお金が大量に流入したことで、貨幣経済が浸透し、同時に借金を返済できない御家人が続出しました。

その結果、幕府は徳政令を出し、沈静化を図りました。

それほど、中世は金貸しが栄えていたのです。

室町時代

足利尊氏は、幕府を設立した際、施政方針を示した建武式目の中で「無尽銭、土倉興行せらるべきこと」という題目を出している。

これは、「階級の上下を問わず莫大な課税をかけられ、支出の制限が難しいのは絶え間ないことである。

急な入用があると、たちまちに不足が生じて貧乏人であれば生計をしのぐ手段もない。

急ぎ無尽銭や土倉を興行させれば、多くの人は安堵できる」(『中世法制史料集』)という内容です。

『土倉』とは、現代で言う質屋のような金貸し業者のことで、質物を頑丈な土倉という庫倉で預かっていたことが言葉の由来と言われています。

また、『無尽』は無尽講のことです。

何人かで講と言われる仲間を作り、毎月決まった金額を持ち寄って、講のうちの一人が、その集まった額を受け取るというシステムです。

例えば、10人で講を作り毎月1万円の掛け金を決めたとすると、10カ月に一度10万円を手に入れることができる、ということです。

この仕組みのポイントは、最初に当たったからと言って、講を抜け出すことはできず、最後まで相互の信頼関係の中で続けることです。

見方を変えれば、自力ではまとまった金額を貯蓄できなくても、相互にその関係を続けることで、融資を受けたり満期の貯蓄を受け取ることができます。

戦国時代

戦国時代の武士の仕事は、戦場を駆け巡り手柄を立てること。

戦争に大義名分こそあれ、やっている行為そのものは略奪なので、武士の生活に細かい計算はいりません。

とにかく奪って財産を増やす、なくなれば奪うといった発想です。

当然、貸す、借りるといった面倒な約束は通用せず、金貸し業は一時の沈黙に入りました。

江戸時代

戦乱が終わり、徳川家によって幕府が開かれ安定した武家政権が樹立されると、主な金貸しは「両替屋」が担うようになります。

もともとは金銀銅貨を両替するのが仕事で、副業として預金業務と貸付業務を行っていました。これらは現代とほぼ同じような仕組みです。

ただし京都を除く両替屋では、預金に利息を付ける習慣はなかったようです。

また、両替屋から借りられるのはよほど信用のある者に限定され、両替屋から借りられることがステータスになっていました。

当時の利息は月利1.5%、年利にすると18.0%くらいです。

両替屋は、大名などの武士にも貸付を行っていました。

しかし、武士にとっては「切り捨て御免」がまかり通っていた時代。

その気になれば商人を斬り殺せる大名からは、貸したお金がきちんと返ってこないということもままありました。

大名がその身分と権力によって「返さないよ」と開き直ってしまうと、「寝ていて金が儲かる」と安直に考えていた両替屋はバタバタ潰れていきました。

こうして残った三井両替店や鴻池両替店は、現在の三井・三菱財閥として現代に続いています。

こうした大名貸し潰しが頻発していた時代でも、商人は賢く振る舞いダメージを減らすよう努めていました。

大名に貸し付けていた両替商や商人は、大名貸しに対してシンジケートを組んだのです。

両替屋は、大名から借金の申し入れがあると、複数の両替屋で持ち分を決めてそれぞれ融資額を決定していました。

大名からの借金を一つの両替屋が面倒を見てしまうと、「お断り」になった途端に破綻してしまいます。

しかし、シンジケートを組めばそのリスクは分散されるのです。

また、シンジケートでは情報交換も行われていました。

どこかで「お断り」があれば、その大名に対して、以後どこの両替屋からも貸付を行わないという仕組みです。

今で言うところの、クレジットや消費者金融、銀行の個人信用情報機関のようなシステムが江戸時代には機能していたのです。

明治時代

明治4年に利息制限が撤廃されました。

飛鳥時代の出挙からこれまで紹介してきて、利息の上限が撤廃されたのはこれが初めてです。

かなり画期的なものでしたが、その後契約書に利息を書かず、あとで暴利を貪る金貸しを生んでしまい、結局頓挫してしまいます。

当時の利息は相当高く、利息制限法を起案した法制局は、「『古今未曾有各国無比の高利』で貸付、返済が遅れると金貸しは罰金、違約金の名目で莫大な損害額を搾取している。

罰金や違約金は制限しなければならない」と、制定の目的を述べています。

そうして、明治10年に利息制限法が制定されました。

ちなみに、民法の制定は明治23年、刑法の制定が明治13年です。当時の日本人がどれだけ目先の利息と借金の問題に困窮していたかがうかがえます。

この時定められた利息は、「元金100円以下は年利20.0%、1000円以下は年利15.0%、契約書に利息が書かれていなければ年利6.0%を上限」とされています。

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大正~戦後まで

大正時代から高度経済成長期における貸金業は、主に質屋が担っていました。

その一つとして、国からの補助金を受け、地方自治体や社会福祉法人が運営していた「公益質屋」というものがあります。

公益質屋は、低所得階層に対して低金利で生活資金を貸し付ける非営利目的の金融機関です。質屋の発展を後押ししたのは、世界大戦後のインフレでした。

物不足により物価が高くなると、物はあるけど金がないという多くの庶民が質屋を利用していました。

生活を維持するのが精一杯で、お金を返す当てがないという債務者も多くいましたが、質屋にとっては、お金の返済がなくともインフレ経済のおかげで、担保として預かっている品物を売却して利益を得ることができました。

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戦後以降の貸金業者の歴史

質屋から消費者金融に変わる

1955年(昭和30年)までは、個人がお金を借りるとしたらこれまで見てきたように質屋で行うのが普通でした。

しかし、それ以降は消費者金融(サラリーマンローン)で借りることが普通になっていきました。

質屋が主流でなくなった理由としては、戦後の大量生産、大量消費の時代になるとモノの担保としての価値が失われたためといえます。

大量消費社会になった結果、質屋は担保としてとったものを売っても利益が出なくなったので貸金業者としての存在感を消していくことになったのですね。

そうした従来の質屋が貸金業者としての機能を果たさなくなる中で、お金を借りたいという人のニーズに答えるために無担保でお金を貸し出す消費者金融が登場することになったのです。

実際それまで質店を営んでいたアコムなどはサラ金業に転換を図っていきました。

これが、現在に続く消費者金融の始まりといえます。

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消費者金融の黒歴史「光クラブ事件」は1948年

消費者金融関係者なら誰でも知っている、消費者金融の黒歴史として有名な光クラブ事件が起きたのは1948年のことです。

1948年と言うと太平洋戦争で日本が負け、戦後ドタバタが続いていた頃です。

東京大学の学生である山崎晃嗣が他の大学生と共同に消費者金融を立ち上げ、資産家から多額の資金を調達し、1949年1月には社員30人を抱えるちょっとした街金並みの会社にまで仕立て上げたのです。

貸付対象者は銀行が貸付対象としない商店や中小企業で個人向け融資はほとんどしなかったと言われています。

しかし戦後復興のインフレによる物価高騰が続く中で、高金利でお金を貸し付ける光クラブが見逃されるはずがありません。

一部の噂によれば銀行財閥と政府による会社潰しとも言われていますが、いずれにしても光クラブはわずか創業から2年で、首謀者である山崎晃嗣の自殺によって幕を閉じています。

第2期消費者金融は戦後復興後1950年代に始まる

太平洋戦争後の戦後復興で一段落すると、再び個人向け貸付が行われるようになります。

手始めに信用金庫が個人向け融資を再始動し、銀行が個人向け貸付を行うようになったのは1960年です。

ただしこの時点でも個人向け融資の資金使途はある程度限定され、目的ローンとすることや担保や保証人を必要とするなど、担保融資に特化した貸付のみでした。

戦後復興後の景気回復によって企業は設備投資のためが必要となり、個人は冷蔵庫や洗濯機、テレビ、自動車などの耐久消費財の購買意欲が盛んだったことがわかりますね。

今から考えてみれば銀行が住宅ローンや事業性資金など、不動産を担保に取ることや連帯保証人を立てることでの融資に特化していたのはこの頃からだったのです。

消費者金融の元祖だと思った武富士ができたのは1966年

日本信販を追うような形でクレジットカード会社が消費者金融に乗り出したのは1967年です。

クレジットカードの高級ブランドであるダイナースクラブがクレジットカードによるキャッシングを始めています。

ところで消費者金融といえばすぐ頭に思い浮かぶのが今はなき武富士ですが、武富士が操業を開始したのは1966年で、旧プロミスよりも1年程創業が遅かったのでした。

しかし当時富士商事と言った武富士が団地に住んでいる奥さんを貸付対象にしたのは、今から思えば先見の明があったと言えるでしょう。

時は高度経済成長に湧き、給料は毎年のように上がり、いわゆる白物家電や自動車の普及は目覚ましく、終身雇用制が当然だった時代です。

専業主婦として暇を持て余していた女性に数万円のお金を貸し付けて、隣近所でカラーテレビを買ったとか、ピアノやエレクトーン、エアコンを購入したなど奥さん同士の競争心をうまく取り込んだのは武富士創業者の見事な采配です。

ちょうどこの同時ですね団地妻という言葉が流行ったのは。

団地妻は三食昼寝付き、夫は自分のATMのように専業主婦が比較的自由にお金を使えた時代だったのです。

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銀行カードローンが始まったのは1972年

旧プロミスや武富士の成功例を見て、日本全国的に消費者金融が雨後の筍のように乱立し始めたのはちょうどこのころです。

当時の出資法の上限金利は年109.5%(うるう年は年109.8%)までの有効とされていたため、ほとんどの消費者金融は出資法の上限金利に近い金利で貸し付けていました。

とはいってもさすがに年109.5%の金利は取れませんので、年60.0%から年73.0%の金利で貸し付けていましたが、10万円の小口融資でも30日あたりの利息は4,931円から6,000円でした。

今の消費者金融のように平均貸付金額50万円でなくても、資金を広く薄く延ばすことでも十分に採算が取れたのです。

参考までに銀行カードローンが始まったのは1972年です。

ちょっと意外だなという気もしますよね。

しかし銀行カードローンの審査は厳しく庶民がお金を借りることはなかなか難しかったため消費者金融が庶民金融として果たしてきた役割は大きかったのです。

サラ金への批判と事業の縮小(70年代後半から80年代)

こうして質屋から貸金業者の主流を簒奪したサラ金は1970年後半までは順調に成長していきました。

しかし、70年代後半からサラ金業者はその過剰な取り立てや異常なまでの高利率が社会問題として強く非難されるようになりました。

この背景には、サラ金業者による苛烈な取り立てによって一家離散や自殺者が無視できぬほど現れてしまったからですね。

こうしたサラ金批判はとうとう国会を動かすことになり貸金業法と改正出資法が制定されることになりました。

この法律と大蔵省通達によって、サラ金は過剰な取り立ての禁止され、さらに貸付可能な金額と金利の上限が取り決められることになります。

これによってサラ金はかつて程の利益を確保できなくなりました。

さらにサラ金業者に資金を貸し付けていた銀行や生命保険会社は国の一連の動きを見て、サラ金業者は国に潰されると危機感を持ちサラ金から資金を引き上げることになりました。

そのため、サラ金業者は思ったように利益を出せなくなっている中で資金調達源を失ってしまう大打撃を受けることになったのです。

こうした流れによって、アコムやレイクにつぐ準大手とされたサラ金業者までもが倒産することになっていったのです。

こうしてサラ金業者は70年代後半から80年台に冬の時代を過ごすことになったのでした。

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90年代の復活

サラ金業者はサラ金問題として批判された結果、地に落ちてしまった業界のイメージを改善するため、まずは名称を消費者金融業者と改めます。

実際、サラ金時代に築き上げてしまった悪名は相当なもので新聞やラジオ・テレビから広告を出すことを拒否される程でした。

そして消費者金融業者はイメージの改善のために様々な手段を取っていくことになります。

例えば株式の上場を果たすことで借り手側は法に抵触するような取り立ては無いだろうと安心して借りれる土壌をつくったり、借り手を萎縮させないように社員の髪型を毎月チェックするなどあの手この手でイメージの改善に奔走する事になりました。

またバブルが崩壊した結果、バブル期に無謀な貸付を行っていた銀行は個人に貸付をする余裕がなくなります。

そのため銀行は個人に貸付を渋るようになり、お金を借りたい人は消費者金融を利用することになりました。

そのため消費者金融の利用者は以前と比べて大きく増えることになったのです。

バブルが崩壊した後も消費者金融が貸付を行うことができたのは、消費者金融業界がバブル経済下でも無理な貸し付けを行わなかったためといわれています。

しかし実態としては、バブル期でもサラ金地獄の悪評が残っていたことや貸し出し上限金額が定められていたので投機的な貸し付けが行えなかった事情があります。

また大手消費者金融業者は消費者のニーズに答えるため、それまでの対面貸出方式に加えて自動契約機による貸出もはじめました。

アコムがはじめに導入したこの自動契約機は瞬く間に利益を生み出し、業界全体に導入されることになります。

自動契約機は対面で借りるのはちょっとと敬遠していても、そうでないのなら借りたいという潜在的なニーズを見事に掘り当てることができたので収益を大きく延ばすことができたと言われています。

ともあれ70年代後半からの悪いイメージを改善しつつ、自動契約機の導入など革新的な技術を投入した事により消費者金融業者は90年代の後半になるとサラ金地獄の悪評を振色できたといえるような状況になったのです。

実際、今まで断られてきたテレビcmといった消費者金融の広告が世間一般でも見ることが可能になったからです。

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2000年以降は大手消費者金融に危機が…

さてこのように90年代にかけて完全に復活したように思えた消費者金融ですが、2000年に入るとその運命は大きく揺れることになります。

2000年に入ると消費者金融業界はテレビcmなどの広告や銀行と提携関係を築くことで安定した経営体制を生み出すことができました。

しかし、2000年後半になると消費者金融業界は再び苦難の時を過ごすこととなります。

それは過払い金返還訴訟とグレーゾーン金利が禁止されたからです。

過払い金返還訴訟とは、過去に払いすぎていた利息の返還を求めて訴訟を指します。

この過払い金返還をめぐって、最終的には最高裁がみなし弁済を否定したことにより消費者金融業界は過去に手にした利息の過払い分を返還をする必要性が発生しました。

またこの過払い金返済の法廷闘争によりグレーゾーン金利が否定されたことにより、貸金業法が改正され完全にグレーゾーン金利が禁止されました。

そのため多くの消費者金融業者は過払い金の返還とグレーゾーン金利が無視できない収益源だったため経営が困難な状況になります。

そうしてグレーゾーンで利益を出していた中小の消費者金融業者の多くは廃業することになりました。

また大手とされた消費者金融業者の多くも、この法改正で銀行の連結子会社化していくこととなります。

2008年には大手とされたアコムが三菱UFJフィナンシャル・グループの傘下に、2012年にはプロミスが三井住友銀行で有名なSMFG(SMBCグループ)も傘下に収まることになりました。

こうして消費者金融業界は2000年代後半から自律性を失っていくのでした。

消費者金融が自律性を失ったことは業界にとって悪いことかもしれません、しかし銀行資本におかれたことで社会的信頼性が上がったとプラスに見ることもできますね。

そして現在では消費者金融業界以外にも銀行や信用金庫などもキャッシングを取り扱っている状況となっています。

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まとめ

貸金業というのは、源流は古く弥生時代にあり、そこから現在まで存在する最古の職業だと言われています。

そう考えれば、昔から貸金業は、消費者から必要とされているということが実感できると思います。

さらに、この2000年間の歴史を見返してみると、時には寺院や上流官僚が貸し手に、またある時には国家が貸し手になる時期もありました。

生活費を補うため、資金調達のため、借りる理由は様々ですが、いつの時代であっても貸金業は国の経済に少なからず影響を与えています。

貸金業は社会にとって必要不可欠な存在であり、借りる側も適正に利用することが重要です。

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出典
『金貸しの日本史』水上宏明(2004年)
『理解されないビジネスモデル 消費者金融』藤沢久美ら(2008年)

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