消費者金融の雄、武富士。業績の推移
※縦が売上(億)横が西暦を表す
こちらのグラフは武富士の1972~1982年までの売上の推移となります。武富士の創業者である武井保雄は1966年に貸付業務を始めて以来、倍々と売り上げを伸ばしていきました。
武富士は大手消費者金融と比べて遅くのスタートでしたが、1980年には業界トップに上り詰めます。
今回は武富士がどのように興ったか、武富士の最盛期、武井康雄の生い立ちを詳しく見ていこうと思います。
武富士誕生から業界トップになるまで
創業者である武井保雄の職歴と共に、武富士の設立から業界№1に至るなるまでを見ていこうと思います。
年代 | できごと |
---|---|
1953 | パチンコ店で働き始める |
1957 | 野菜の行商を始める |
1960 | ヤミ米の商売を始める |
1966 | 前身である富士商事を設立。団地金融なる、団地に住むサラリーマンの主婦相手に貸付業務を始める。(サラリーローンとは) |
1968 | 有限会社武富士商事と改める |
1970 | 後の武富士の支店となる(株)ユタカ、(株)ヤマトローンサービス、(株)東邦ローンサービスを次々に設置。 |
1973 | 社員の給料を歩合給から固定給に変更 |
1977 | 貸付残高100億円を達成。前記の会社を合併して(株)武富士に社名を変更 |
1978 | 本社を新宿からサンシャイン60に移転 |
1980 | 別会社を合併して、貸付残高648億円となりアコムを抜いて業界トップに |
富士商事設立当初は、アコムやプロミス、アイフルなどの消費者金融.の1/3 1/4の規模でしたが、1980年にはアコムを抜いて業界トップに上りつけました。
また、1982年の申告所得は183億円で、法人所得ランキング152位につけております。経常利益189億円は当時の都銀並みの業績でありました。
そして、それから20年後の2001年には経常利益として2316億円あげており、日本で9位にランキングしています。
なお、アコムは13位、プロミス26位、アイフル27位に位置しており、消費者金融業界全体が盛り上がっていたといえるでしょう。
2001年度連結経常利益ランキング ※出典:野村証券金融研究所
社名 | 経常利益(億円) |
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1,トヨタ自動車 | 11135.2 |
2,NTTドコモ | 8533.7 |
3,NTT | 7182.5 |
4,ホンダ | 5513.4 |
5,日産自動車 | 4147.4 |
6,武田薬品工業 | 3592.1 |
7.東京電力 | 3428.5 |
8.キャノン | 2815.6 |
9.武富士 | 2316.0 |
10,任天堂 | 1866.1 |
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13.アコム | 1718.3 |
26.プロミス | 1120.9 |
27.アイフル | 1050.6 |
このように消費者金融業界全体が急成長した背景には、
- 銀行が事業主だけで消費者向けの融資へ手を向けていなかったこと
- 無担保、無保証ですぐに借りることができる簡易性
が大きな要素としてあったようです。その中でも、武富士は、設立から14,5年ほどで上場。さらに2001年には経常利益でもトップクラスに成長しました。
当時は、経営者である武井康雄の経営者としての評判はすごく高かったそうです。創業者である、武井保雄の生い立ちを紹介しようと思います。
武井保雄の生い立ち
埼玉県深谷市という群馬県と隣接する土地で、武井は生まれました。
工場などが立ち並んでおり、比較的貧しい肉体労働者たちが、住んでいたとされています。
武井が小学校に通っていたとき、実の父親が近所の女性と駆け落ち。その後、母親がお店を切り盛りしながら4人の子供を養ったそうです。
武井が会社を運営するにおいて、母親の言葉を実践しているものがあるといいます。
①貧乏に追いつかれちゃだめだ。いつも動き回りなさい
この言葉から武井は常に行動する重要性を学んだといいます。以下が武井がインタビューの際に応えた言葉です。
私は経営って難しくないと思うんですね。なんでみんな、経営に成功しないんだろうか。
真剣にやれば何でもできる。
みなさんは夜、寝ているんですね。私は寝ていません。2時間ぐらいの仮眠はありますけど、それはねていることにはならないんです。今朝も5時まで部長を集めて会議をやっている。集めると言ったって、頭の中の部長を集めるわけ。これは嘘じゃない。自分で葛藤するんです
武井康雄の娘婿にあたる高島望は武井康雄と同居しており、その生活の大変さをこのように語っております。
同居していた4年間というもの、私はほとんど睡眠不足でヘロヘロであった。こんな金儲けの怪物と会社も一緒、寝る家も一緒というのは、よほどの体力、気力がないとつとまらない
常に社員を自宅にとめ、研修を施していたそうだ。
父の自宅には四六時中、社員が詰めている。つねに社員を呼んで、研修しているからだ。新任の支店長を六十人くらい、二泊三日ぐらいで全国から集めて、父が直接、研修の指導を行うのである。だから父の家というのは、やすらぎの場ではなく、研修道場であり、眠りながら仕事をするための、第二オフィスに他ならないのである。
②失敗は成功のもとはウソ。失敗すれば、それで終わり
当時は業界トップを走っていた武富士ですが、他消費者金融と比べて、新規のサービスを先んじて行う、ということはありませんでした。
自動契約機も、カード戦略、銀行との提携も他社の動きをじっくり見て、参入タイミングを見極めております。その判断の裏には、幼いころに母親から言われた言葉があるといいます。
新しいことを行うのに慎重を期す武井ですが、サービスを取り入れるとなるとあっという間にとりいれてしまいます。
自動契約機も後発ながら、取り入れて1,2年も立たないうちに業界トップの自動契約機を全国に設置いたしました。
CMでよく流れる「武富士ダンサーズ」
なぜか記憶に残っている武富士ダンス。当時テレビでご覧になっていた方は、女性が黒の衣装で踊っている姿を覚えていることでしょう。当初はダンサーは武井保雄の趣味で選ばれており、ダンサーもたびたび変更されていたそうです。
武富士流~金貸しの貸付基準~
武井保雄が貸金業を始めたときは、機械による自動与信システムなどありませんでした。
ですので、お金を仮に来た人にいくらお金を貸し付けることができるのか、記入してもらった情報とお客さまの見た目等から判断する必要があったのです。
以下は、武井保雄が団地金融を行っていた際に、チェックしていたポイントをまとめてみたものです。
チェック項目を見てもらうと“ずぼらでないか””金遣いが荒くないか”をあらゆる要素から検証していたというのがわかります。
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自分より強そうな人には貸さない、などの言葉があるように武井は取り立ても厳しく行い、友人といえど容赦ありませんでした。
金目のものがないと、障子や畳などを持ち帰ったという話があります。
このように武井康雄は持ち前の経営手腕を武器に武富士を日本でもトップクラスの企業へと成長させていきました。
その武富士が、2010年9月に突然倒産します。それはいったいなぜでしょうか。 詳しくはこちらのページで紹介しております。
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